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経済・政治・国際

2009年10月29日 (木)

情報の属人化

社内において情報の属人化は非常に恐ろしい。よほど報連相を徹底する習慣を持っていないと、経営者ですらアンタッチャブルの領域を作ってしまいます。

原則として、仕事に人をつけるのが組織のあるべき姿でしょう。しかし、わが国は古くから人が仕事を作るという風土をもっています。だから職務給が根付かないということになるのですが、結果だけでなく人の能力を評価するので「人が仕事を作る」という風土も一概に否定できません。

ただ、人が仕事を作ることに伴って発生する情報を武器に立ち居振る舞いをされると最悪です。情報が属人化すると、悪い情報は経営者には流れません。いい情報だけ流れます。しかし、いい情報はもともといいのだから経営には支障ありません。重要なのは悪い情報をすばやく流すことです。悪い情報は遅れると経営に支障をきたします。

属人化している場合、悪い情報が遅れるどころか闇に葬られることもあります。いい情報、悪い情報の判断も属人化された判断です。

こうしたことが繰り返され、業務は非効率になり、経営判断ができず、いつの間にか高コスト体質が当たり前になってしまい、損益分岐点の高い会社になってしまいます。経済環境の悪化で赤字になっているのではなく、もともとこうした体質があったから赤字になっているというのが本当のところでしょう。

属人化すると当人は気づいていません。それどころか「自分は何でも知っている」と快適にさえ思っている可能性があります。さらに始末の悪いことに、当人は情報を握っているだけに日常業務のキーマンになっています。

だから、経営者も遠慮して注意できない。周囲は「脅威」さえ感じ、悪循環は深まるばかりです。もちろん下の者は育たない。そこまで放っておいた経営者にも原因はあるのだから、最後は経営者が恐れずにリーダーシップを発揮することが問題解決の要です。

2009年10月22日 (木)

月次決算と発生主義会計

月次決算には発生主義会計が不可欠です。発生主義は、現金の収入や支出に関係なく、収益や費用の事実が発生した時点で計上しなければならないとするものです。

ある会社の月次試算表を見ると、「なんか変だな」と。月次推移を見ると、売掛金や買掛金がまったく動いていない。しかも、月によって粗利益率の変動幅が大きすぎる。事情を聞くと、「税理士さんに出してもらっている」と。

西原:「もしかして、決算のときだけ税理士から売掛金の残高、買掛金の残高の一覧を教えてほしいと毎年頼まれているのではないですか」
会社:「そうです。毎年決算のときだけ頼まれます」

これは、期中「現金主義」で処理して、決算月に修正して年次では「発生主義」にする方法です。税務決算だけならこの方法も否定できないですが、月次決算となると相当な問題。期中の損益はまったくわからない。現金の増減を見ているだけのようなものです。すべて現金取引ならいいですが、そうでなければ企業会計としては意味がありません。

そもそも企業の儲けは現金が増えなければ儲けとはいえません。その現金を生む根源は発生時点にあり、さらにいえば意思決定時点までさかのぼります。意思決定時点で儲かるかどうかは決まっているのです。

しかし、意思決定時点で損益を把握することは不可能なので、発生時点を基準として損益を確定します。現金は発生の後に動くので、発生時点で先の現金残高も確定します。

小規模企業では現金主義で会計処理しているところは結構あるようですが、そこそこの規模になっても同様にしているケースもあるので大変な驚きです。

「現金主義の月次試算表を毎月渡されて、しかもご丁寧に細かい財務分析まで。一体、経営者は何を見ていたのだろう」と疑問に思ってしまいます。こんな状態で「当社は業績主義を導入している」と言われると、疑問ではなく不安になってきます。

現金主義の処理は作業が楽です。しかし、そのつけは計り知れません。今のご時勢、企業規模に関係なく、「月次決算」と「発生主義会計」は基本中の基本と思うのですが・・・。

2009年9月24日 (木)

現場任せは部分最適

仕事を「現場任せ」にするとどのようなことが起こりやすいでしょうか。

「現場を大切にする」、「現場の意見を聞く」どれも大切なことですが、「現場任せ」だけはいただけない。なぜなら「現場任せ」は部分最適な場合が多いからです。部分最適な集合体は必ずしも全体最適にはなりません。

行政の仕事を考えてみてください。行政の各部署は自部署をよくするために一生懸命努力してがんばっていると思います。しかし、全体最適の視点でみるとどうでしょうか。政権をとった民主党と官僚とのギャップをみれば明らかです。省益(部分最適)あって国益(全体最適)なしです。

がんばっているから、自分たちの悪いところを見ようとしない。上からいろいろと改善案を出してもなかなか受け入れようとしない。改善案は全体最適だからです。

こうしたことが企業内でも起こります。「現場はかんばっているから」といっていつまでも旧態依然とした考え方、やり方で同じミスを繰り返す。現場主導で「経営陣が現場の仕事に口を挟まない」・・・一見いいことのようにも思いますが、そのためにはいくつかの条件が必要です。

以前ある社内研修で「現場主導には賛同できない」と発言したら相当現場から反発をもらったことがあります。技術を売る会社なので当然の反応ですが、こういう企業では現場で「コスト」がおろそかにされているケースが多い。現場中心の名の下にコストをかけることが正当化されているケースが多いのです(役所の体質も同様ではないでしょうか)。また、近視眼的なものの見方をするのが現場です。

こうしたことは全体最適の視点から見たら、肯定できるものではありません。現場では「全体最適あっての部分最適である」という視点が欠けてしまうのです。

だからといって、すべてトップダウンで現場をコントロールのがいいとも思いませんが、少なくとも全体最適の視点をもつ現場管理者を置いて情報を経営陣にフィードバックすることは必要条件です。

経験上、生え抜きの管理者は部分最適になりがちです。厳しい環境下では部分最適しかできない管理者は弊害になります。全体最適の目を育てなければなりません。

2009年8月13日 (木)

職務給と職能給

職務給は「仕事基準賃金」の代表格で、職務の価値を測定して賃金を決めます。日本では、職務給がなかなか普及せず、年功的賃金や職能給が主流です。

年功的賃金は下方硬直的で、そのことが若年者の低賃金や非正規社員を生み出しているようです。昨今のワーキングプア現象を解決するには日本も職務給への移行が必要と言われるわけです。世界のスタンダードは「職務給」ですので、確かに今後は検討しなければならないでしょう。

しかし、日本の風土で職務に値段をつけることができるでしょうか。

値段をつけるには、職務が標準化、一定化されている必要があります。日本での仕事のやり方は、業務の中で課業が個々の社員に与えられ、それを工夫しながら職務を拡大、充実していく傾向があります。その職務拡大・充実ができる社員が高く評価され、言われたことしかできない社員は評価が低いというのが一般的です。

ですから、中心は「人」で「人基準賃金」が日本の歴史上では採用されてきました。これを果たして「仕事基準」に変えることができるかどうか。個人的には宗教的なこと、遊牧民族と農耕民族との差など、DNAレベルで日本では不可能と思っています。

日本には「職能基準」というすばらしい「人基準」があります。それに基づいた賃金が職能給です。職能給に対して批判はありますが、真剣に取り組んだ企業は成功しています。

想像ですが、「仕事基準」が中心になると、日本の企業が高付加価値を実現することは難しくなるのではないかと思います。「仕事基準」の行き過ぎが、昨年の米国金融界の不祥事を生んだと思うと、世界のスタンダードが「仕事基準だから」というのもなかなか納得できません。

低賃金、非正規社員の問題は深刻ではありますが、国力を落とすような政策は避けなければなりません。資源のない国ですから、「人」を資源として「高付加価値」で生き残る方法を選択すべきではないでしょうか。

2009年6月18日 (木)

仕事と自己

「仕事はここまで。あとはプライベート」、「会社が終わったら、あとは自分の時間だから仕事は関係ない」・・・若いとき私自身そういう割り切った考えはありました。しかし、いつからかわからないですが、それは「間違っていたな」と感じるようになりました。

確かに、仕事の性格上そのように割り切れない部分が多いというのはありますが、本質的に仕事とはそういうものであるのではないかと考えています。正確にいうと、働きづめといったことでなく、プライベートの時間も仕事のことは片時も忘れないといったほうが妥当です。

こうなると、その仕事を充実させないで、いい人生を送ることは不可能ではないかと思います。仕事を通じての成長に充実感を得、仕事を通じて自己を社会に表現することが、まさに「自己実現」ということなのではないかと。

「組織を変える、風土を変える」・・・大変な難業なのですが、これなくして改革はできません。なぜ、研修やコンサルを入れても改革できないのか。一人ひとりの仕事意識なるものが変わらない限り、見せかけの改革で終わってしまいます。真の改革は仕事と自己が一体化するものでなければなりません。

そうした一体化が実現したとき、組織と個人のさらなる飛躍が実現するのでしょう。小手先の経営手法や研修はクソにもならないと痛感しています。

2009年6月11日 (木)

在庫の問題は人の問題

在庫管理の状態を観察すれば、おおよそ組織の風土、経営状態がわかります。在庫管理はモノが入って出て行くまでの過程を管理するわけですから、外的な影響は受けにくいのです。在庫管理の問題はまさに「社内の問題」です。売上のように外部環境のせいにすることはできません。それだけに社内の意識の影響が大きく、これがきちんと管理できていれば、まずそのその組織は良好でしょう。

具体的には、
まず、社員が在庫を金銭的な感覚で捉えることができるかどうか。これができれば、コストカットにかなり意欲的な社風が感じられます。ムダの排除も行き届いているでしょう。

次に感覚的に低い価値で認識されがちな在庫管理のルールを社員に守らせることができるかどうか。これは、指揮命令、報連相がきちんとできているかどうかが確認できます。ある会社では、私が現状在庫をまず把握すると告げたら、幹部社員が慌てて、死蔵品をこっそり捨てたという例もあります。こんなのはこの時点でアウトですね。そういう風土や意識を改革しないと、どんな手法を導入しても何もうまくいきません。案の定、その後指揮命令、報連相が壊滅状態ということがわかりました。

最後に、トータルで管理を考えられるかどうか。在庫はモノが入って出て行くまでの過程ですから、一部のプロセスだけ効率化してもダメです。つまり、在庫管理も生産工程と同様に前工程、後工程を考えて自分の工程を考えなければなりません。また、イレギュラーが多いのも在庫管理の特徴です。このイレギュラーを原理原則に則したかたちでいかに処理するかは社員の問題解決能力によって相当な差がでます。これができれば、一事が万事で組織の問題解決能力レベルはかなり高いと思います。

在庫のないサービス業でも同じです。消耗品、受注残、顧客など・・・在庫と同様に考えることは可能です。

以上が「在庫の問題=人の問題」といわれる所以です。

2009年5月21日 (木)

緻密と大雑把

組織にはさまざまな性格の社員がいて、その人たちが協調して仕事をすることで、組織としての一定の価値サービスがユーザーに提供できると思います。社内には、緻密な人や大雑把な人が入れ乱れて、それがパズルのようにしっくりはまり、ひとつのまとまりとなっているのです。もし、緻密な人ばかり、大雑把な人ばかりでは組織運営は破綻するでしょう。

よくみると、「緻密な人は根っからの緻密ではない」、「大雑把な人は根っからの大雑把ではない」ということに気づきます。つまり、何人かの人は組織の状況をみて、「緻密にせざるを得ない」、「大雑把にせざるを得ない」と使い分けているのです。

こうしたタイプは、比較的「仕事ができる人」に多いと思います。特に、経営者にはこのタイプが多いように感じます。「うちの社長は細かくて困る」といった社員の意見に対して、私が感じるのは「それは社員が大雑把すぎるから」です。きっと、社員が細大漏らさない視点で仕事をしいれば、社長はさらに大局的な立場で指示するのではないかと思います。「繊細かつ大胆で、行動は大胆に」というのが理想です。

問題は根っからの緻密な性格、根っからの大雑把な性格です。このような性格の社員が権限を持つと、周りは相当振り回されます。せっかくの仕事のできる社員がこのフォローにまわらなければなりません。社長も細かい指示ばかり飛ばさなければなりません。

本来、仕事は緻密なものというのが私見です。緻密さを突き詰めて最後に大胆に決断するというのがいいのではないでしょうか。

2009年4月25日 (土)

PDCAはできなくても効果あり

以前、「PDCAサイクルは自然消滅する可能性が大きい、それは各人の温度差があるから」と書いたのですが、ここにひとつ朗報があります。

ある調査によると、数ヶ月以上の時間をかけてビジネスプランを作成した会社と何の計画もなく行き当たりばったりで対処した会社の成長を調査したところ、慎重に計画を練り、明文化した会社のほうが行き当たりばったの会社より利益を上げている事実がわかりました。詳細な計画を立てなかった会社は倒産したケースも含まれます。

・・・と、ここまでは当然予想できることです。そこで、計画を立てた会社に「どの程度計画の見直しをしたか」と問うたところ、ほぼ例外なく計画が出来上がって以来、見直していませんでした。つまり、出来たと同時に机にしまいこんでしまったということです。

結論として、計画通り実行したから成功したのではなく、「計画を立てるプロセスで得た情報、思考が成功につながった」ということです。

計画を立てる作業というのは、あらゆる可能性を網羅しなければなりません。そのプロセスでリスクも計算に入れるし、擬似的に理想的なビジネスを描きます。現実はそれとは乖離しますが、問題点を認識する能力は、計画のない場合よりも格段に上がると思います。

そのことが、ビジネスプロセスにおけるキーファクタを認識させ、不断の体系的思考を可能とし、計画とは異なっても成功への要素を押さえるのではないかと思います。

そういえば、いつも計画は立てるがいつの間にか立ち消えている会社と、行き当たりばったりの会社を比較すると、前者の会社のほうがこの不況期でも健全性があるような感じがします。机上論でも考えないよりはましと言えそうです。

アイゼンハワー将軍がノルマンディ作戦成功後、作戦についてたずねられ、こう答えました。

「作戦そのものは役に立たない。作戦を立てる行為こそが不可欠なのだ」

2009年4月20日 (月)

コミュニケーションの難しさ

ある説によると、会話において話し手の本意は相手に70%程度しか伝わらないということです。「え~、そうなの」と最初は思ったのですが、最近は確信しています。

朝礼などで、トップが部門長に話をし、それを部下に伝える際は、トップ→部門長で70%、部門長→部下で70%×70%で49%。ということは、トップの本意は半分くらいしか全体には行き渡らないということです。

おそらく、聞き手が相当注意を傾けてこの数値なので、いい加減に聞いているともっと低い数値になるのでしょう。部下が10人いたら8人はいい加減に聞いていると思ったほうがよさそうです。(ニッパチの法則=パレートの法則=2:8の法則)

この説が真実だとすると、聞き手が悪いのではなく、話し手はこのことを踏まえて相手に伝えなければなりません。残りの30%をどうするか。今のところ、何度も会話を交わしてその穴を埋めるのがもっとも効果的ではないかと思います。

考えてみると、言葉というのは実に不可思議なもので、ひとつの言葉の意味はみんなが共通のイメージをもっているとは限らないのです。それは育った環境も教育環境も違うのだから当然なのですが、普段はそんなことも気にせず会話して本意は伝わったと勘違いしてる可能性は大きいのです。

例えば、「戦略」という言葉、人によって相当意味が違いそうです。もっと簡単に「やわらかい」という言葉、これもその人の尺度で随分違いがありそうです。こうした言葉の集合体でコミュニケーションをしているのですから、本意が伝わらないのも無理もないということです。

とすると、前述した「何度も会話を交わす」という方法で、本意を100%に近づけていく、また、聞き手も相手の状況や習慣などから「察する」という方法で、コミュニケーションの質を向上させるということが必要ではないかと思います。同じことを何度も聞くのは嫌がられますが、これもある程度は必要な行為と言えそうです。

同じ環境化であるはずの家族間でも本意を伝えるのは難しいのですから、社会での組織内コミュニケーションはなおさら努力しないと本意は伝わらないのです。むしろ、伝わらないことを前提にコトの進捗は考えたほうのがいいかもしれません。

2009年3月26日 (木)

挨拶の目的

以前、「挨拶のできない会社」というテーマで挨拶の効用を書いたのですが、では、なぜ挨拶が必要なのでしょうか。挨拶の目的は何なのでしょうか。

私たちは、社会とのかかわりをもって生きていかなければなりません。家族(親、子、兄弟姉妹)も社会の構成部分ととらえれば、誰もが社会とのかかわりを必ず一時期持つことになります。

社会とのかかわり・・・そこには必ず人が介在して、人とのやりとりがあるのです。そのとき、ある種の「緊張感」があることは間違いありません。「緊張なんかしないよ」という人もいるかもしれませんが、動物が他の生き物を見たとき、緊張が走る本能があるように、何らかの緊張感が生まれることは自然なことと思います。それが、家族であっても、やはり微細な緊張感は生まれているのではないでしょうか。

例えば、

狭い道の向こう側から見知らぬ人が歩いてくる。
だんだん近づいてくる。
チラッと相手の顔を見る。
すれ違う。
緊張が走る。
通り過ぎる。
ホッとする。

相手がだんだん近づいてきたとき、突然「こんにちは」と声をかけられる。緊張は一瞬で解けます。これが挨拶の目的です。つまり、本能的に生ずる緊張を解きほぐして、その後のコミュニケーションを意識的に円滑にするのです。

家族でも朝一番「おはよう」と声をかけることで、その日一日のコミュニケーションは変わると思います。ましてや、他人同士が働く職場では心がけて挨拶をしないと、コミュニケーションは悪化して仕事の生産性はがた落ちです。

以上が、「なぜ挨拶の必要があるのか」という問いに対する私が答えた回答です。

2009年3月21日 (土)

成果主義はプロセス主義

AIGのボーナスは日本人だけでなくアメリカ人にも違和感があったようです。もらう側は納得いかないでしょうが。「やれと言われたことに対して、結果を出したのだから、当然約束のボーナスはもらう」・・・成果主義が根付いていると思われるアメリカでさえ、世論からは納得されなかったのです。

こうなると、成果だけを問うビジネスというのは、今後世界的に否定されそうです。だからといって、日本が得意とする年功が復活するかというとそれもグローバル社会ではあり得ないといえます。

組織における仕事とはいうのは、上司の指示があって、部下がそれに従うという基本的な流れがあります。「これをいついつまでにしなさい」、「わかりました」のやりとりです。しかし、そのプロセスを逐一あれこれ指示することは、新入社員でもない限り稀なことです。

特にビジネスパーソンを評価するにおいては、指示されたことだけやっていればそれで合格ということはなく、そのプロセスから派生する様々な例外に対する対処とか、そこから学んだ事象を次へとつなげられるかどうかとか、将来的な期待値も含めて評価されます。100の要求に対して、105以上返さないと「できる奴」という評価は得られません。

短期決戦であれば、結果のみの評価でもいいかもしれませんが、長期となると、その人が「どう考え、どう取り組んだか」が重要で、そういう意味で成果主義は結果だけをとらえるのではなく、プロセスをみなければならないということになります。

そこに日本が成果主義を取り入れた際のミスマッチがあるのではないかと思います。仕事の結果そのものの評価ではなく、人と仕事を一体化させて評価することが必要なのです。

アメリカの仕事結果への偏りすぎ、日本の人(年功、人格)への評価の偏りすぎ、この2つの中間点がおそらく最適な成果主義であり、それは「プロセス主義」と考えられます。

2009年3月 4日 (水)

パソコン思考

最初、パソコンの扱いがわからないのは誰でも同じ。しかし、どこかの時点である人はメキメキ上達し、ある人は停滞してしまいます。

何故そうなるのか・・・と考えたとき、あることに気づきました。それは、「仕事脳の思考回路がパソコンの処理回路と類似しているかどうか」です。昔、私もパソコンがわからなくて(操作はできるのですが、どうしてこうなるのかがわからなくて)、よくわかっている人に10分程度その原理を教えてもらいました。

それを聞いたとき、「なーんだ、そういうことか」と。それからパソコンがよくわかるようになりました(よくわかるといっても、適当にマニュアルを見て、抵抗なくそこそこ使える程度ですが)。幸いにして、自分の仕事脳の思考回路はパソコンの処理回路と相性がよかったようです。

これからの世の中、パソコンが抵抗なくできるかどうかはビジネスパーソンにとって一大事です。「私は理系じゃないからわからない」という人もいますが、これはまったく関係ないと思います。

大切なのは、パソコンの処理スキームをよく知って、それに自分の考え方を同調させることです。これができないと、パソコンを便利なツールとして扱うことはできないでしょう。また、新しいアプリケーションに慣れるにも膨大な時間を要することになります。専門家じゃないので、短時間で習得して、そこそこ扱えればいいのです。

パソコンの苦手な人と仕事をするのが苦痛なのは、単にパソコンが扱えるかどうかではなく、その思考回路に問題があるようです。

2009年2月17日 (火)

労働分配率と賃金制度

労働分配率は、付加価値に占める人件費の割合です。付加価値は、簡便的には、製造業で「売上-材料-外注費」であったり、小売業で「粗利益」を使います。要は、利益をどれだけ人件費に分配するかという趣旨です。

一般的に、小売業は40%未満、卸売業は45%未満、製造業は50%未満、サービス業は55%未満が良好といった目安があるようですが、必ずしもそうではない場合もあります。実際に高い労働分配率でも十分な営業利益を出している会社もあるので、個々の会社で適正な率は求める必要があります。

ただ、統計的に労働分配率が高い会社は赤字になっている可能性が非常に高いということは言えそうです。それでは低ければ低いほどいいかというと、従業員のモラールが低くなってしまっては元も子もないので、「適正な」ということになります。

賃金制度を考える場合、労働分配率を考慮して設計するようにしているのですが、意外と企業側は無頓着なことがあります。役割給、業績給、業績賞与・・・と、個々の従業員への分配方法は変動的にするのですが、大本の原資は固定化。これでは、いくら成果主義・業績主義をうたっても業績悪化時には労働分配率は跳ね上がります。

支給原資を変動費化させることで、ある程度の労働分配率の高さを許容できます。労働分配率の高い会社は人件費を変動費化することをおすすめします。固定費があるから赤字になるのであって、究極的には経費を全部変動費にしてしまえば会社は絶対赤字にはならないのです。

最近のように業況が悪くなると、労働分配率で人件費をコントロールできる会社とそうでない会社では相当な体力差があるのではないでしょうか。但し、不当な解雇などによる変動費化は社会的にも人道的にも許されません。あくまで雇用は維持。

「借入れしないと賞与が払えない」というのは典型的なコントロール不能状態です。賞与は労働分配率でコントロールし、フリーキャッシュフローでまかなえなければ支給減すべきなのです。賞与原資を借入れるということは問題の先送りであり、それでは永遠に問題解決できません。

とはいえ、どうしようもない・・・であれば、きちんと現状を従業員に伝え、これからしようとしていることと将来像を説明することから始めます。

2009年2月 3日 (火)

朝令暮改は是か非か

経営において「朝令暮改は是」と考えている経営者は多いのではないでしょうか。「朝令暮改」は朝出した命令が夕方にはもう改められるということで、命令が頻繁に変えられて一定しないことから悪い意味で使われます。

「うちの会社は方針がコロコロ変わる」という従業員のコメントをよく耳にします。しかし、変更は「目的」なのか「手段」なのかが重要です。

ある会社で、従業員は「社長の方針はコロコロ変わる」とぼやいていますが、私が聞く限り社長の方針は変わっていないと認識しています。従業員は「手段」の変更をぼやいているのです。手段の変更は常に起こりえます。

例えば、顧客満足へのアプローチ手段は様々です。朝「これがいい」と思っても「夕方にはダメだ」と思うこともあります。しかし、これは複数ある手段を取捨選択しているだけで、目的である顧客満足は変わっていません。経営者の頭の中は目的を達成するためにあらゆる手段が渦巻いているのです。

指示された従業員にしてみると、コロコロ変わると思うかもしませんが、これを朝礼暮改として非難していては、激変のビジネス社会を生き抜くことは不可能です。

ここで欠けているのは「目的」の相互理解です。特に受ける側が、その目的が何であるかを理解しておれば、朝令暮改という非難はないのです。「そうか。この手段のほうが目的は達成できるな」と理解すれば、朝令暮改と思うことはありません。ここに、仕事のできる従業員とできない従業員の分岐点が見えるように思います。

言われたことしかやらない従業員ほど朝令暮改を感じるのです。

2009年1月18日 (日)

質を問う年

「量か、質か」・・・質を問うと量が減り、量を追求すると質が悪くなる。簡単そうな課題で、両方を良くしようとしても、なかなか難しい。

どちらも追求する必要はあるのですが、量の追求は行過ぎると破綻する可能性が秘められていることが昨年後半の教訓ではないかと思います。

私の仕事で言うと、「指導先件数」、「従業員数」、「読んだ書籍数」、「所持している資格数」・・・こういったところが量の側面でしょう。しかし、こうした側面は質を追求した結果であるべきなのです。ホンモノは量の追求はしません。

昔、目標数値を決めてそれに向かってがむしゃらにと思っていた時期もあったのですが、世の中その頃とは変わっていて、「質を問わない量の追求は危険」です。

いかに「生き残るか」・・・これが低迷する世の中のキーワードです。そのためには質を優先させることが最重要。ホンモノしか生き残れない時代に向かっているのです。

「世界同時恐慌」・・・見直すにはいい機会です。

2008年12月25日 (木)

次の危機への下地

もし、経済が生き物であれば、生きてゆくために「ひずみ」は是正されなければなりません。それが、自然の摂理であり、多くの生物が生き延びるために繰り返されてきた現象です。

経済の低迷は定期的に繰り返され、行き過ぎると停滞し、ある程度停滞が続くと過熱に向かっていきます。停滞期には誰が発するでもなく「ひずみ」が是正され、正常になるため、「ひずみ」のある企業、人、政策などに退場を促します。自然淘汰と言ってもいいのではないでしょうか。

100年に一度と言われる金融危機も、回復のための滑走期間と思えば、そんなに悲観的になる必要もないのでは・・・と思います。

しかし、誰でも病気の治療中はつらいもの。即効性ある対処療法に頼りたいのは誰も同じ。名医は薬の使用より、患者の自然治癒力を引き出すように努力すると聞きます。過剰な薬は副作用、別の傷病原因、根本的な体質改善の妨げとなるからでしょう。

マクロ経済的には強力な薬の投与(救済策)は避けられないのでしょう。問題は本来退場しなければならいない分子が強力な薬の影に隠れて生きながらえることです。さらに怖いのは、その薬による恩恵(補助金)を虎視眈々と狙っている分子です。

こうして、経済回復に向けて進む中で、次の危機への下地は醸成されていくのです。

2008年12月11日 (木)

カスタマーセンターの役割

ここ1年の間に2つのパソコンメーカーのカスタマーセンターに問い合わせる機会がありました。ひとつは外資系のD社、もうひとつは国内の某社。

D社は2ヶ月程度にわたってやりとりしたのですが、驚いたのはこちらの状況が常に正確に把握されており、どの電話のオペレーターも対応が最高に良かったことです。こちらが申し訳ないと思うほど丁寧な対応をしてくれました。どのオペレーターと話しても「悪い印象を与えない」というは相当なものだと思います。さすがは「顧客満足度1位」というだけのことはあります。

国内の某社はちょっとだけのやりとりでしたが、非常に不快な思いをしました。最初から「大丈夫かな」と思ったのが第一印象でした。結局、不良箇所は修理でき、目的は達成できたのですが、D社との違いは何だったのでしょうか。

振り返ってみると、D社のカスタマーセンターは顧客の要望をまず第一に考え、それに対してD社がどこまで対応できるかを提案してくれたように思います。それに対して、国内の某社のカスタマーセンターはまず自社の主張を述べ、それに顧客が対応するべきというものでした。まったく正反対の対応の2社ですが、国内の某社の製品を買うことは二度とないでしょう。

カスタマーセンターは、会社の一員なのだから会社の利益のために機能することは当然です。しかし、その利益は長期的な利益であるべきと思います。目先の損得で処理してしまうと、リピート客は獲得できません。単なるクレーム処理機関ではないのです。顧客の代理人であるべきなのです。

そうした代理人としての機能を兼ね備えたとき、カスタマーセンターは本来の機能を果たすとともに、永遠の顧客を獲得し、企業の強固なブランドが確立されるのです。かつてディスカウントでシェアを拡大したある国内メーカーのアフターサービスが悪かったことで、衰退したことを教訓としなければなりません。

2008年11月30日 (日)

投資ポートフォリオ

株価の暴落から経済の停滞へと凄まじい急降下は、投資ポートフォリオも役立たないことが明らかになりました。本来、組み合わせによって相殺することで、リスクヘッジするのでしょうが、ほとんどの資産で損失が生じてしまうとなんともなりません。

今回の急降下に対しては、「こんなときのためにポートフォリオで投資したのに・・・。ポートフォリオも平時の手法」と思わざるを得ません。素人投資家にポートフォリオを勧めていた証券会社等はどう言い訳してるのか・・・。あらためて、個人投資家は資産管理の重要性を痛感しなければなりません。(自分はどこまで投資にお金を使っていいのだろうか)

会社経営も似たところがあります。1つの事業分野では不安定だから、色々と分野を拡張していく。そのおかけで、A分野がダメでも、B分野で利益を確保して、全社としては何とか黒字に。そうやって、何年も会社経営を続けることができた。

しかし、この手法も投資ポートフォリオと同じで、グローバルで経済が停滞すると、収益事業分野を見出すのは難しくなります。しかも、新事業を立ち上げるには時間がかかります。

となると、やはり資産管理。これまで蓄えた体力でいかにこの嵐が過ぎるのを待つかです。自己資本比率の高い企業が圧倒的に有利です。これまでに投資パフォーマンスを考えずに、目先の必要性でキャッシュを流出していた企業には相当きつい嵐になりそうです。銀行頼みです。

市場も会社も個人も、不測の事態を吸収できる体力の範囲内を考えておくことが重要。このことを忘れていた時期がバブルなのでしょう。

2008年11月21日 (金)

数値VS経験

西原:「数字から考えると、改善が進んでいるように思えないのですが・・・」

担当者:「数字、数字って言うけどね。そんな数字だけで管理できると思ってるのか」

西原:「どうしてこういう数字になるのか原因を究明しなければ改善はできないと思いますが・・・」

担当者:「原因はわかってる」

西原:「何ですか」

担当者:「部材に不良が混ざっていたんだ」

西原:「しかし、それだけではないでしょう」

担当者:「あったとしてもそれは微々たるものだ」

西原:「微々たるってどれくらいですか」

担当者:「無視できる数値だから関係ない」

西原:「無視できるってどれくらい?・・・」

現場の熟練者は自負もあるし、現場を知らないよそ者から数値をあれこれ言われて不快なのでしょう。確かに現場の熟練者はよく知っています。しかし、いつも思うのは、いくら経験を積んでも詳細な数値まで感覚的にとらえることは至難の業だということです。

「微々たる」、「大半」、「ほとんど」・・・こうした言葉に今まで随分裏切れたものです。実際、数値を測定してみると、この言葉に反する数値が出ることはしばしばあります。現場の熟練者はイメージでとらえているのでしょう。特に直近の!!

それはそれで大雑把に大局でとらえることも必要なのですが、「どんぶり勘定」になってしまうことのリスクは避けられません。つまり、自助努力で改善しなければならない課題とそうでない改善をごちゃ混ぜにすることで、自社で改善できる課題を見逃すということです。これを繰り返していると、自社の技術力はいつまでたっても向上しないし、同様のミスを繰り返すことになります。

数値は冷徹なイメージがあり、それを言っている人にも冷徹なイメージを持つものですが、数値のもつ客観性はすばらしいと信じていますし、それで今まで随分役立った経験もあります。経営に求められるのは「数値AND経験」なのです。

2008年11月13日 (木)

人件費の変動費化

人事賃金制度を顧客に提案する際に、必ず人件費の総額管理について触れています。趣旨は人件費は固定化しやすいので、できる限り変動要素を取り入れて売上の増減に柔軟に対応しましょうというものです。

労働分配率の高い企業においては、特に強く奨めています。労働分配率の高い企業は、人材能力に高度な要求があり、それなりの技術であったり、危険を伴っていることが多い場合があります。この場合、高付加価値、高人件費になっているのですが、これを一般的な標準指標と比較して良し悪しを判断することは無意味と考えられます。したがって、変動要素を多く取入れて、人件費の硬直性を柔軟にして、労働分配率が高い水準で一定値を保てるように仕組みを考えます。

人件費を変動費化しようとすると、成果主義による賃金は避けて通れません。昨今は成果主義の批判を目にすることも多いのですが、これはマスコミのネタになりやすいという要因もあるのでしょう。私の関係先では、成果主義の導入で今までの問題が相当改善され、社員の意欲も伸び、全体に緊張感が溢れるようになった企業もあります。最近の世界的な不況が言われる下において、ある企業は「外部的要因で売上が下降しても、人員の削減なしで当社は乗り越えられるだろう。むしろこの機会に優秀な人材を採りたい」と。公表されていないだけで、おそらく成功している企業は世の中にたくさんあると推察します。

人件費の変動費化において従業員に担保しなければならないのが「情報公開」です。「なぜそのような人件費原資なのか」を明らかにすることは従業員からすれば当然でしょう。そこで納得できれば、「賞与半減もやむなし。しかし、次回の賞与を倍増するにはどうするか」となるのです。お金がすべてではないですが、多くの従業員の強い動機付けになることは確かです。

情報公開で必須なのが、「人事考課」と「企業業績」です。どちらもその管理には高度な合理性、客観性が求められます。人事考課は公平性と人材育成が、企業業績には恣意的にならない計数管理が必要です。これらを整えようとすると、業務の見直しに踏み込まなければならないこともしばしばです。しかし、この2つをしっかりと公開しなければ人件費の変動費化は成功しないでしょう。

景気がよくなると苦い思いはついつい忘れてしまうのですが、もはや高度成長期に生まれた仕組みは捨て去らなければなりません。過去のしがらみに遠慮することなく、未来を先取りする仕組みを断行することの重要性を思い知る時期が来たのかもしれません。

2008年11月 6日 (木)

QCDによる付加価値

QCDは製造業のマネジメントでよく使われます。Qは「品質」、Cは「コスト」、Dは「納期」。この三つをコントロールして、顧客に最適な製品を提供するわけです。

これを日常のビジネスのやり取りに適用すると、単純な作業でも価値に差がでることがわかります。例えば、部下が上司に指示された仕事の終了を報告するケース。

「品質」は報告内容となります。最低限必要なのは終了した事実。これに結果などの状況説明を加えればよりベター。

「コスト」はこの場合、報告書作成に必要な時間。短いほどいいでしょうが、さほど相手には問題ない要素です。時間がかかりすぎると自分が一番損することになります。さらに遅れると次の納期にも影響します。

「納期」は上司に報告するタイミング。これは非常に重要です。早ければ早いほどいい場合が多いです。上司から催促されるようではアウト。これが徹底できると、「あいつは仕事ができる」という評判になる可能性が大きい。

納期が守れても品質が悪ければダメということも考えられますが、単純な仕事はすでに一定の品質基準になっていることが多く(例えば、行政に提出する定期的な書類など)、人との差がつくのはやはり「納期」になります。(もちろん、早くても一定の品質が保たれない場合はやり直しで、納期は遅れます。)

「前の税理士さんのときは、従業員が退職しても催促しないと源泉徴収票を発行してもらえなかった。催促しても年末まで待たされた。しかし、今は退職者には要求しなくても即発行してもらっているので非常に助かる」と言われたことがあります。これなどは品質、コストが一定で、納期だけ大きく向上させることで付加価値が上がったいい例でしょう。

「言われた納期を守る」ことから、さらに「言われなくても相手のニーズを察して納期を考え、それを守る」というレベルまでいくと、「信用」という付加価値が得られるのです。そもそも納期のもとをたどれば約束だから・・・。

2008年10月26日 (日)

二面思考

昔から二面思考を示す言葉はたくさんありますが、問題に直面したとき、つい主観的、一面的になってしまうのは人間の本性なのかもしれません。特に、問題の渦中にいるとき、二面思考は非常に難しい。

昨今の株価急落、円高はマスコミ報道、エコノミストのコメント、どれも悲観的なものばかりで、聞いているだけで気が滅入ってきます。まあ、どれだけ人の気を引くかで評価される職業だけに、あまりにマイノリティな意見を言って、後で責められることを考えると「ここはみんなが考える悲観論で」となるのでしょう。

そもそも、報道とか、評論は「悲観論」で発表したほうがリスクはないのです。当たれば「やっぱり言ったとおりだ」、はずれたら「ばずれてよかったね」なのです。楽観論ではずれたら「はずれているじゃないか」と責められるのです。

この悲観論に流されていると、いつも見方は一面的になってしまうのです。本当はチャンスもあるのに。

重要なのは、「もしものときに備える力」と「チャンスと見たら一気に攻める力」を同時に併せ持つことなのです。そして、日ごろからそれができるだけの体力を温存することです。

「危機」とはクライシスとチャンスと聞きます。企業経営においても、個人投資においても「二面思考」のできる会社や人がクライシスを乗り越えることができるのです。

2008年10月17日 (金)

PDCAサイクル

PDCAはプラン(計画)→ドゥ(行動)→チェック(検証)→アクション(改善・再行動)を繰り返すマネジメントサイクルです。非常にシンプルにマネジメントの本質を表していて、これに5W1Hが加味されれば、ほとんどの課題は解決の方向へと動き出すのだと思います。

しかし、これがなかなか難しい。組織においては、複数の人たちが関与するので、さらに困難を極めます。これを忠実に実行できる組織、ビジネスパーソンにめぐり合うことはめったにないと言っても過言ではないのではと思います。

自分も含めて経験的に、このサイクルは「縮小化・下方化」していくこと(縮小・下方スパイラルと言ったほうがいいかもしれません)が多いことははっきりしています。

最初のプラン(計画)は壮大な目標があって、いろいろな手法も取り込んで立派なものができます。でもこのとき、チラッと「ホントにできるのか。一体誰がやるんだ。自分が担当だと困るな。」といったことが頭をよぎります。

次のドゥ(行動)はプランのようにはいきません。やってみると難しい。トーンダウンしてきます。日常の業務に追われたり、物理的に不可能なことが発生したり、人のせいにしたり、「できない」理由を探し出します。

続いてチェック(検証)。この段階では、できなかった結果を既に認識しているので、気が入りません。やりたくないのです。言い訳をいろいろと考え、その場をどう切り抜けるかが主な思考になってしまいます。次のアクションにあまり負荷がかからないようにするか、またはその場しのぎでさらに壮大な再行動計画を立てて許してもらおうとすることもあります。

そして最後にアクション(改善・再行動)。儀式としてやる場合や全くスケジュールが組まれずやらないこともあります。

こうして、PDCAサイクルは縮小して自然消滅。社員の間では、自分たちが張本人なのに「うちの会社は計画だけで実行しない」とか「いつも絵に描いた餅」などと無責任な発言がはびこります。

どうしてこうなってしまうのでしょう。原因はいくつかあるでしょう。

その中で重要な原因をひとつ。それは「温度差」です。問題に対する意識の差のようなものです。当たり前といえば当たり前なのですが、この温度差を日ごろからいかに縮めておくかということは相当重要なことと思います。この温度差のバラつきが小さいほど組織として強固であり、問題解決にすぐに取り組めるように思います。(温度差による偏差を数値化できれば組織診断指標としても使えるかもしれません)

温度差を縮めるキーワードは「コミュニケーション」です。良好なコミュニケーションはあらゆる問題解決の基礎的な処方箋です。そして、有効な処方箋ほどシンプルかつスタンダードなのです。

2008年10月 6日 (月)

コンテクスト

コンテクスト(Context)は「文脈」、「前後関係」、「背景」と訳されます。これが読み取れるかどうかで、結果は180度異なります。

例えば、あるお客様から発せらるメッセージについて、コンテクストを理解しようとしてそのメッセージを受け取る人とメッセージの額面のみを念頭に置いてメッセージを受け取る人とでは、その行動、結果は相当異なることは容易に想像できると思います。

お客様:「月次決算資料を出して欲しい」

額面氏:「わかりました。早速作ります」・・・(とりあえず、来週までに作ればいいか。)

お客様の要求どおり行動に移るのであれば、これでいいことになります。

一方、

コンテクスト氏:「わかりました。何か必要でも生じましたか」

お客様:「新規投資を考えていてね。ちょっと利益状況とか推移を見たかったので」

コンテクスト氏:「それでは来週中にはお持ちします」・・・(利益推移もだけど、新規投資なら資金余力だな。その指標も必要だろう。利益低迷期、銀行貸し渋りの状況下だから、銀行を納得させるシナリオも考えようか。)

当然、仕事のパフォーマンスはコンテクスト氏のほうが格段に上となります。その差は倍どころではありません。場合によっては、数十倍の差がつくことだってあるのです。

この点が、提案型ビジネスの差別化の要点です。時間労働では、人の10倍働けば、10倍の収入が得られますが、継続的には不可能です。しかし、提案型ビジネスではコンテクストを読み取れば、同じ労働時間で桁外れのパフォーマンスを生み出すことができるのです。

この能力は生まれつきあるものなのか、鍛えられるのか、わかりません。ただ、そういう人がビジネス社会には存在していて、顧客に受け入れられ、活躍している事実は何度も目にしました。確信はないですが、きっと鍛えられる能力と思います。

2008年9月29日 (月)

退職金はいずれなくなる!?

前回の続きになりますが、退職金の存在意義はもはや相当低くなっているのではないかと思います。あるとすれば、既存労働者の「既得権」として。

労働者の既得権は法的にかなり強力なので、これを一朝一夕に廃止することはできません。しかし、時間をかければ新規採用者からは廃止できるので、いずれ何十年後かにはなくなる可能性はあるわけです。

前回にも書きましたが、その成り立ちを考えると、当初考えられた退職金というのはもはや存在することは困難で、形を変えることで、例えば「確定拠出年金」といった公的年金の補助としての存在しかないと思います。これを「退職金」と呼ぶには抵抗感を感じる人は多いのではないでしょうか。

こうした「退職金の行く末」を見ることで、世の中をもう一度見てみると、「時価評価」というキーワードが思い浮かびます。背景にあるのは世界基準である「時価会計」の浸透。つまり、現在価値がどうかということが重要なのです。

過去の功績とか関係なく、将来は現在に置き直して、時価価値で評価することが企業経営には要求されているのです。そのためには将来の不安は取り除かなければなりません。

このことはすべての分野において浸透しそうです。人事評価も過去の功績より、現在どう評価するか、先々どのように育成するかが重要です。これまでは、企業人生を通じて評価されたので、山谷あっても平均されて格差も出ませんでした。しかし、これからは自助努力を怠るととたんに急降下です。人の評価も時価なのです。(個人的には賃金は期待料と考えています。)

昨今の企業不祥事と時価評価も相関は強いのでは。大手の老舗も時価評価には勝てなかったのです。

この流れの中では、やはり「永年働いてくれてご苦労さん」式の退職金は縮小の方向なのです。

2008年9月12日 (金)

確定拠出年金は退職金か?

確定拠出年金は退職金と言っていいのかどうか。この問題は、退職金の定義によると思います。

確定拠出年金は60歳以降に支給されることが原則です。つまり、定年退職後の生活保障の一部なのです。企業が退職金を「老後の生活保障」と定義した場合は確定拠出年金はズバリ「退職金」と言えるでしょう。

しかし、退職金の目的を「賃金の後払い」、「ご苦労さん代」、「功労報償」などとしていると、確定拠出年金を退職金と呼ぶにはちょっとズレを感じます。

そもそも、退職金はどうして発生してきたのでしょうか。戦後、特に製造業が発展するためにどうしても必要なのは人と資金です。農業に従事している人が多く、農閑期に工業に就く程度の時代、企業は人を長く確保するため、「退職金」を作って、「長く働いてくれたら、これだけ出すよ」と。しかも、これは賃金の後払いになるため、資金のプールにも貢献しました。その資金を設備投資にまわし、供給力を向上させ、世界中に日本製品を行き渡らせました。これが高度成長です。

そうした過程を見ると、ただ単純に退職金を確定拠出年金に置き換えることには無理があるように思います。

適格退職年金の廃止が近づくにしたがって、その移行先として確定拠出年金を候補にあげている会社は結構あると思います。よく検討した上での決断ならいいですが、保険会社の提案のままとか、よそがやっているからとかだとすると大変なボタンの掛け違いかもしれません。

適格退職年金に加入したときのことを思い出してください。保険会社のすすめるままに加入して大変な目にあったのではないですか。

ここはひとつ、退職金が当社に必要なのかどうか、ここから議論をする必要がありそうです。

2008年9月 8日 (月)

誤字脱字

昔、格上の人に自分のレポートを添削してもらった際に、当然内容についての指摘を期待していたのですが、誤字脱字の指摘だけに終わっていました。

非常に意外というか、がっかりというか、もっと辛口の指摘を期待していただけに拍子抜けしてしまいました。その人曰く、「書いてある内容は間違っていないし、特に指摘することはありません」と。

真相はどうなのか今となってはわかりませんが、「誤字脱字があるようでは、目を通すにも値しない」ということではなかったのではないかと思っています。読んでいただくわけですから、それくらいの注意義務は当然だったのでしょう。

と同時に、「わかりやすいところで物事は判断される」ということも教訓として得ました。いくら内容が良くても誤字脱字が多くては評価されないでしょう。人にたとえると、「能力が高くても、挨拶ができない人、身だしなみの悪い人は評価されない」ということです。

日常では、メール、ファイル送信など手軽な分だけ様々なやり取りをするのですが、これらは言葉と違って訂正がすぐにできません。メールなど多少の誤字脱字は許されそうですが、相手によっては不快感を与えてしまう可能性は大きいと言えるでしょう。

誤字脱字の多くは「見直し作業」をすることで解決します。これをやらないのはその人の怠慢であり、その人の仕事の質が推測できます。

「見直し作業」・・・これで誤字脱字は九分九厘なくせると思います。

2008年9月 3日 (水)

習熟曲線が活かされない

習熟曲線が活かされない場合とは、いくら経験しても失敗ばかりしているケースです。

一般的に製造業では、新規生産においては良品が生産される歩留まりは非常に低く、生産量が累積してくると、次第に改善やオペレーターの習熟度が増し、ある時点で加速度的に歩留まりが向上します。そして、生産量が限界に近づいてくると、歩留まりの向上はそれほどでなくなります。カーブはS字を描くことになります。

これが組織によっては、学習経験がまったく活かされていない。ここでもコミュニケーションの悪さが主たる原因と思われます。情報がフィードバックされない、レビューする風土がない、議論をしない等等。

こうした組織では、小手先の改善やお題目だけの改善テーマを掲げても100%改善は不可能です。断言します。「習熟曲線のとおりに歩留まりが向上しない真の要因」・・・真犯人を見つけない限り改善はあり得ません。

特に製品寿命が短くなる昨今、ゆっくりと習熟曲線を描いていては、歩留まりが向上したときには既に製品寿命が尽きているかもしれません。まして、習熟曲線が描けないようではマーケットに参加することすらできません。

このことは個人でも同様。習熟曲線の上位にすばやく位置できる人は、当然習得が早い。しかも、習熟曲線の形状から、あるラインを超えるとそんなに量をこなさなくても一定の知識レベルを保てるので、幅広く知識も得ることができます。そんな習熟曲線を何本も持っている人は、どんなマーケットでも生きていくことができるでしょう。

「なぜ繰り返し失敗してしまうか」、「なぜ向上しないか」・・・習熟曲線が思い通り描けないのは、やはり客観的な欠陥があると推測できます。そのことに早く気づくかどうかも「気づきの習熟曲線」上のことなのかもしません。

2008年8月24日 (日)

報連相を考える

組織運営の基本中の基本、それが報連相です。

これがうまくいっている組織とそうでない組織では全ての機能において雲泥の差があると思います。上意下達、下意上達・・・双方向でなければいけません。

しかし、どうもうまく機能しない。上位者は「まあ、下には伝えなくてもいいか」と。下位者も「別に上に伝えるほどのことでもないか」と。あるいは、「そんなこといちいち連絡しなくちゃいけないのか」と、まったく必要性に気づかない人もいます。

古今東西、組織の中でこれだけ「報連相」が言われ続けても、なかなか徹底できないのはどうしようもない原因が根底にあるのでしょうか。

そこで日ごろから思っている原因の中からひとつ。報連相をうまく機能させるには、お互いが「相手の気持ちをくみ取ること」に注力することでしょう。相手の立場、気持ちがわからないから報連相が遅れるのです。いくら重要性を唱えてもできない理由は、こうした個々の感性に影響されている場合が多いのです。

相手の気持ちがわからない原因は、個々の場面における「コンテクスト(文脈とか背景)」が理解できていなことに尽きます。このセンスがあるかどうかは、過去の対人関係(特につらい経験)が相当影響しているように感じます。

もちろん、もって生まれた性格も影響します。しかし、過去の対人関係の中で「どれだけ苦労したか」、「悩んだか」が重要です。対人関係で何の悩みもなくスイスイときてしまった人ほど報連相は下手なように思います。

個々の過去の対人関係が大きく影響しているとなると、組織の中で、報連相の重要性をあれこれ唱えても、人それぞれ温度差があり、完璧に徹底することは困難です。それぞれの温度差のある基準で判断してしまうのだから・・・。

しかし、ミニマムの報連相は組織としては必須です。そこはルール化しなければなりません。それ以上のことは、本人の能力の問題であり、それを人事考課などで評価し、改善に結びつけるという地道なプロセスをたどることになります。

報連相を徹底できない組織が多いだけに、できたら究極の差別化になるかもしれません。

2008年8月19日 (火)

怒る上司

「うちの上司はすぐ怒る。だから、相談もしたくないし、できるだけ関わらないようにしてます」・・・ヒヤリングなどで、こういう話を聞くと、きっと上司はワンマンで頑固なんだろうなと単純に予想してしまいそうです。

また、「上司は部下の叱り方も勉強して、やる気をださせるような叱り方をしなければならない。そのためにはほめることも必要」・・・もっともらしい、テキストに出てくるような教訓です。

しかし、「怒る」、「叱る」は理由があってのことです。その理由を怒られる側、叱られる側は熟慮、反省しているのでしょうか。

例えば、あるプロジェクトで、Aさん

Aさん「なるべく簡単な課題にしてください」

西原「なぜですか」

Aさん「ミスすると上司にめちゃくちゃ叱られるんです」

西原「叱られるから、簡単にしてくださいということですか」

Aさん「そうです」

これではいい仕事はできないでしょう。さらに、プロジェクトも失敗でしょう。程度の差はあるかもしれませんが、「ミスをしたら叱られる」・・・当然のことだと思います。ミスの代償がこれである程度は帳消しになるのだから。

それとも、ミスをしたら「Aさん、いいよ、いいよ。誰でもミスはするから。気にしなくていいから。でも次からは注意しようね」(これがきっと怒られる側が期待する内容なのでは)と言って本当に人が育っていくのでしょうか。

しかし、これでは絶対よくならない。一見、本人はその場は自己反省しそうですが、ミスの代償にはなってないのです。2度とミスしないほどの強い反省は期待できません。

怒られる側、叱られる側は、どんなにひどい怒られ方をしても、まずはミスを認識し、強く反省することが第一です。と同時に謝罪です。「言い方がひどい。嫌味を言われた」などと言って自分の反省を先延ばしにしているようでは、本当の反省はできないのです。

叱られることを怖がって萎縮している職場があります。上司の叱り方を直すべきという側面もありますが、まずは叱られる側の考え方「叱られるから責任ある仕事はやりたくない」という後ろ向きな姿勢をまずは直すべきなのです。

2008年8月11日 (月)

ビジネスに不向きな人

仕事柄、多くのビジネスパーソンに会うのですが、「この人、ビジネスに不向きだなあ」と感じることがあります。それがビジネスにおいて致命的ではないのですが、非常にコミュニケーションがとりづらいのです。

ビジネスにおいては、ビジネスの世界だけの常識があると考えています。例えば、「速さ」、「正確さ」とか「信頼」とか。家庭や仲間内では、そんなに高度な要求ではないものが、ビジネスでは高度なものを要求されます。

他にもビジネスでは不可欠な常識があると思いますが、これらトータルの常識の基準値にギャップがあり、おそらく「ビジネスに不向きだなあ」と感じてしまうのではないかと思います。

これが対「組織の常識とのギャップ」ということになると非常に大変で、自分と常識の基準値が近似している人を探すのにまず一苦労です。しかも、せっかく見つけたその人がキーマンになってないと、計画は思うように進まず、棚上げ状態になってしまうこともしばしば。

こうした人たちとどのようにコミュニケーションをとるのか、毎度のことながら考えるのですが、自分の常識を変えて相手に合わせる以外ないようです。しかし、ビジネス上の常識と考えているのですから、どうしても一線を破れず、頑なに拒まざるを得ないときが多くなります。そんな時、「この人、ビジネスに不向きだなあ」となるのです。

もっとも、ギャップですから、相手から見れば私が相手の基準値に合っていないわけで、「この人、ビジネスに不向きだなあ」と思われているかもしれませんが・・・。

2008年8月 6日 (水)

ハードルを越えるか、取り除くか

個人がハードル、つまり障害にぶち当たったときには、それを越えるために苦しくても努力して越えようとします。賢者はそうすることが後々自分の成長につながることを知っているから、努力を惜しみません。愚者はその時点で努力を避けてしまうため、いつまでたっても成長しません。その場をごまかすテクニックだけはつきます。

個人にとっては、あえて高いハードルに挑戦することはすぐに結果が出なくても「自己の成長」というすばらしい宝物を得ることができるのです。一見、無駄なハードルと思われてもそれが培われて、未来の自分はその礎の上に形成できると思えば、苦労のし甲斐があるというものです。

ところが、個人ではなく企業(組織)ではどうでしょう。企業(組織)であえて高いハードルに挑戦することは企業(組織)の成長につながるのでしょうか。

スポーツで考えてみると、チームが成長するには高いハードルに挑戦することは、強くなるためには必要と考えられます。これは、「勝つ」という強烈な使命が構成員にあります。したがって、みんなのそうした意識が結集すれば、個人のような成長も期待できそうです。

しかし、企業の場合は「利益」という目標はあるものの、社員全員にスポーツほど強烈な使命はありません。みんな会社は良くなって欲しいというベクトルは同じ方向でも、その長さ、太さはそれぞれなのです。つまり、構成員の温度差が激しいのです。そういう状況では高いハードルに挑戦して企業の成長を望むことは非常に困難ではないかと思います。

とすると、企業(組織)においては、ハードルを越えるよりも、取り除く方を考えてはどうかと思います。企業(組織)はスポーツと違って、1人のスーパースターよりも社員それぞれのレベルアップが重視されます。

例えば、99人100脚という競技を考えた場合、その中に1人どうしてもついていけない人がいます。その人をさらに訓練するよりも、別の競技に参加させて、98人99脚で安定的に前進したほうが全体として良好となります。また、この競技で前方に大きな岩があった場合、それを無理に乗り越えるよりも、その岩を退かす、避けて通るという方法をとったほうが早く目的地に着くでしょう。

個人においてはハードルを越える努力は大切ですが、企業(組織)となると個人の努力を活かすためにハードルは取り除かなければなりません。もし、個人と同様にハードルを越えて成長する企業(組織)があったら、それは意思統一のできた、すばらしく強靭な企業と思って間違いないのですが・・・。

2008年7月28日 (月)

労働の対価

労働の対価と賃金・報酬との関係は、非常に難解です。

例えば、月200時間労働して、40万円支払ったら、時間給は2,000円となります。労働の対価として時間当たり2,000円となるわけですが、本当に1時間の労働に対して2,000円の価値があるのでしょうか。

1時間以内に売上10,000円、売上原価6,000円であれば、粗利益が4,000円で、労働の対価として2,000円の価値はありそうです。しかし、労働の価値はこんなに明確に金銭に置き換えられるケースばかりではありません。一般的には、金銭に置き換えることが不可能なケースがほとんどと思います。

このため、支払う側ともらう側の意識に大きなギャップが発生します。経営者と賃金について話すと、支払う側にとって、賃金・報酬は労働の対価としての位置づけは建前であって、本質は「期待料とロイヤリティ」が多くを占めているという認識ではないかと思います。

つまり、上記の例だと、パートタイマーの相場から時間給はせいぜい1,000円で、これは需給関係で決まった、ある意味客観的な金額てす。(といってもこの中にも期待料とロイヤリティは含まれていると思います。労働の価値を原価計算すると、厳密にはもっと低いかもしれないし、高いかもしれません)とすると、あと残りの1,000円は期待料とロイヤリティとなります。

もらう側にとって、100パーセント賃金・報酬はは労働の対価としてとらえて、さらに、これが自分の能力評価額とまでとらえている人もいます。

能力評価額とまで認識してしまうと、大きな間違いがあります。そもそも賃金・報酬額は個別の能力評価よりも、支払い能力に最も左右されます。成果主義を導入しても、支払い能力の低い会社では、十分な原資がないため、その中では高額な分配となっても絶対額は低くなってしまいます。つまり、支払い能力の低いところからもらえば、能力が高くても賃金・報酬は低くなるわけです。逆に、支払い能力の高いところからもらえば、多少能力が低くても賃金・報酬は高くなります。

労働者だけでなく、我々のような仕事ではさらに顕著にあらわれます。同じサービスを提供しても、金額は相手の支払い能力に左右されます。(但し、あまりにギャップが大きすぎると、労働者と違ってお断りする自由が我々にはありますが・・・)

モノ・サービスを提供する側、つまりお金をもらう側は、金額の中に「期待料とロイヤリティ」が含まれていることを忘れてはなりません。ましてや支払われる賃金・報酬が自分の能力価値だと思うのは論外と思います(特に専門的な職種ほどそういう認識の輩が結構いそうです)。もらっている賃金・報酬を自分の能力の価値だなんて思ったら、相手の期待には応えることはできないし、自分自身の飛躍を止めることになると思います。

たとえモノであっても、買う側(支払う側)はそれを安定して長く使うことに期待しているのです。その価値に対してお金を払うのです。決して、原価計算して、それを作る労力をに対して支払うのではないのです。

もしかしたら、モノの価値、能力の価値はほんの数パーセントで、期待料とロイヤリティがほとんどなのかもしれません。

2008年7月22日 (火)

購買額の上限は?

権限の委譲の一つとして、従業員が自己の判断で購買できる上限はいくらが妥当かという質問があります。一定の規模以上の会社になると、職位によって○万円までと範囲を設けているケースは多いと思います。一定の規模以下の会社はどうかというと、設けていないケースが多いのではないでしょうか。その場合、「従業員が自己判断で自由に購買する」、「社長がすべて吟味する」のどちらかが多く、この2つの方法の与える影響は全く相反するものとなります。

前者の「従業員が自己判断で自由に購買する」は一見、機動性にすぐれ、望ましいように見えますが、経験上、業績の悪い会社、規律の守られない会社に多いように思います。後者の「社長がすべて吟味する」は、社員が萎縮して組織として指示待ちになっているケースもあるのですが、経費についての意識は社員も高く、業績低迷の時には結構強いという印象があります。

前者の場合、従来の方法の悪さにトップが気づくと、「○○円までは自己判断で購買できる」というルールを作りたいと相談されることがあります。その際にいつも回答するのは「1円でも伺いを申し出ることにしましょう」としています。

こういうと、おそらく現場からは「そんなことでは仕事がまわらない」、「緊急時にそんな判断を仰いでいる時間はない」と猛反発をくらうことになります。しかし、本当に現場の言うとおりなのでしょうか。現場の購入する納品書を見ると、「本当にこのロットで、このタイミングで購入する必要があるのかどうか」疑問に思う納品書は結構あります。面倒だからまとめて発注、面倒だから新品交換・・・こんな現場の状況が見て取れるようなケースも。本音は「今までやってきたのに何故。面倒くさい」が主たる気持ちなのではないかと思っています。こういう人に限って、事後報告もしません。事後報告なら時間的な切迫はないはずなのですが・・・。

しかし、こんなのは習慣の問題と思います。事実、トップダウンで「購買については、1円から申請してください」としたケースで、最初は面倒だという文句もありました(特に古参の社員)が、そういう風土になれば、今ではみんながそれに従って処理しています。

そもそも、会社のお金を使って購入するのだから、自由に購入するなんてことはありえないのです。自分の家にあるお金を家族一人ひとりが何の断りもなく、自由に引き出して使うことは考えられないと同じです。

また、購買の判断を自由に任せてしまうと、相手先の業者に対して優位に立つので、権力を持ったと勘違いする馬鹿な社員も出てきます。

確かに、従来と比べると機動性に欠ける場面もあるかもしれません。しかし、原則は「あなたが自由に使えるお金は一銭もない」のです。不都合な場合は、例外ルールを使えばいいのです。

問「ボールペン一本でも申請して買わなければならないのか」
答「そうです。不便なら総務が一括購入、在庫ストックして、社員は使用申請してください」

問「緊急時はどうするのか」
答「理由を明記の上、事後申請してください」

問「忙しい。こんな面倒なことできるか」
答「・・・」。(申請書ひとつ書くことができない忙しさってどうなの。そんな状況を今日まで野放しにして。やり方が悪いんじゃない)

繰り返すと、「あなたが自由に使えるお金は一銭もない」のです。

2008年7月14日 (月)

ハインリッヒの法則

私の気に入ってる「○○の法則」の中に、「ハインリッヒの法則」があります。1つの重大事故の背景には29の軽度の事故があり、さらにその背景には300の軽微な異常(ヒヤリ・ハット)があるという法則です。

統計上の経験則からきている思うのですが、これが実によく現実にあてはまります。実際に300の軽微な異常を数えたわけではないですが、ニュースで見る「事故」の背景にはおそらく、数々の軽微な異常が隠されているのだろうなと常々思います。言い換えると、軽微な異常をほうっておくといつかは大事故になるという教訓なのです。

「事故」というと身近に感じられませんが、「重大なミス」と置き換えると、日常の仕事にあてはまります。重大なミスを起こす人は、必ず日常の細かい仕事が粗雑です。丁寧さがないのです。それが積み重なって、ある確率で重大なミスが起こるのでしょう。集団で仕事をする場合、粗雑な人が集合すると、毎日どこかで重大なミスが起こる組織になってしまいます。

また、「事故」ではなく、「大成功」と置き換えてみます。営業で大きな成果を上げる人は、必ず日々小さな積み重ねをしています。それがあるとき実って大きな受注となります。こんなことができる人が集まった集団は、毎日どかこで大成功が起きているのですから、昨今のコスト高の環境でも強く生き残ることができます。

こんな形で、「ハインリッヒの法則」を変えてしまうと、ハインリッヒさんに怒られてしまいそうですが、私にとっては怠惰な心に鞭打つ法則なのです。

2008年7月 8日 (火)

適格退職年金廃止 その2

適格退職年金の移行先を検討していくと、国の施策方針が垣間見えます。「公的年金の給付額を減らしたい。支給開始年齢を繰り下げたい。」この二点につきるでしょう。

これらを補うために、ターゲットになったのが適格退職年金。この原資をなんとか公的年金の補填に使いたいということです。

保険会社は適格退職年金はコストがかかるので早くやめたいというニーズがあります。会社は損金処理による積立ができ、将来債務をなくしたいというニーズです。この2つのニーズの後押しもあって、老後の給付をメインにした制度への移行のみを法的に認め、掛金は損金処理できるということになりました。

但し、中小企業退職金共済への移行も認めています。これを運営しているのは厚生労働省の外郭団体です。決算書をみると、平成16年で2970億円程度債務超過。理由はどうあれ、移行原資はこの穴埋めに使われることになります。しかも、高齢者の増加に伴い退職給付が今後増えることも間違いなしです。この制度も年金で受け取ることが可能なので、いずれ一時金の給付はなくなるかもしれません。

そうなると、事実上、退職金というものは、存在が困難になります。独自に企業で積み立てるといっても、損金が認められなければ、掛金は有税です。生保の商品を使って損金で積み立てる方法もありますが、法律や通達が変われば、一瞬で否認です。前払い退職金という方法もありますが、これも給与所得課税、社会保険料などが控除され、、やりにくくなっています。

大きな流れは、「老後の給付に民間企業も協力すること」なのです。退職金制度は時価会計、成果主義の観点から、将来的にはなくなると思っていましたが、国の施策として廃止に至る可能性もありそうです。

企業も従業員もこの流れに逆らうことはできません。「老後の面倒をみるお金は国にはもうないのでヨロシク」というメッセージだと思います。

2008年6月30日 (月)

挨拶のできない会社

人間だから日によって挨拶を忘れてしまったり、考え事をしていて挨拶が遅れてしまったり、様々な状況があるでしょう。しかし、まったく挨拶をしようという意志を感じ取れない会社があります。組織として良くないのですが、そういう風土なんでしょう。

「挨拶をしなくても俺はきちんと仕事をしている」というのが、おそらく挨拶をしない人の言い分だと思います。しかし、そのような考えの組織では、情報の共有化がされてないことがほとんどです。

「情報の共有化」・・・組織にとって非常に重要な機能です。共有化されていない会社では、情報つまり仕事といってもいいのですが、これが属人化されていて、すべて断片的なのです。このことは、重複作業を発生させ、マクロ的な視点を欠き、生産性、品質を下げるのです。

属人化された情報は、蓄積するとその人の武器となり、経営トップでさえもその人に頭が上がらないという馬鹿げた状況を生み出します。武器をもった人は、共有化には反対の態度をとります。こうなると、部下は育たないし、トップの意思決定は遅れるし、横の連携はとれないし、何一ついいことなく、当の本人が満足しているだけです。

まずは、挨拶でしょう。挨拶はインフォーマルなコミュニケーションの第一歩です。インフォーマルなコミュニケーションがある組織は間違いなく効率がいい。無駄もない。品質もいい。たった1秒で1日の仕事の効率は大きく変わるのです。

2008年6月21日 (土)

営業優先

何でも入ってくる穴あきバケツと何も入ってこない黄金のバケツがあった場合、どちらを選ぶか。前者は営業力はあるが品質や管理に欠陥のある会社、後者は営業力に欠陥があるが品質や管理は完璧な会社。会社にとってはどの機能も十分満たされなければならないのですが、生き残るのはおそらく前者でしょう。つまり、「何でも入ってくる穴あきバケツ」です。

福井コンピュータの小林眞氏もその著書で「一般的に経営資源というと、ヒト、モノ、カネ、情報と言われるが、私はヒト、モノ、販売と考えている」と指摘しています。販売がなければ何も始まらないということです。

このことは売れずに悩んだ創業者でないとわからない感覚かもしれません。誰もが起業したときに悩むのは営業だと思います。そのとき乗り越えた様々なノウハウをいかに営業マンに伝えるか。ここに営業風土を培うポイントがあるのではと思います。

「営業マンは結果が常に要求されるように思われているかもしれませんが、そればかり求めると失敗を恐れて行動が消極的になります。むしろプロセスを重視しなければなりません。例えば、今日は何社訪問して、誰に会うことができたか。目的の人物に会えなくても、守衛の方と仲良くなったとか。成否は別としてそのアクションをしたかどうかを評価しないと、出来ない理由を並べたがるのが人の習性です」・・・というのは、営業力に富んだ社長のコメントです。

確かに、「アポイントをとろうとしたら相手が不在、会わせてもらえなかった」、「チャイムを鳴らしても誰も出てこなかった」、「競合が強すぎる」などは格好の出来ない理由です。こうした理由を並べることで本当は売ることができたのに自ら逃してしまったという事実はおそらく数限りないでしょう。

営業がうまく機能しないのは相手の問題ではなく、自分自身の問題なのです。自分で壁を作ってしまっているケースが多いのです。

最近は、テレビコマーシャル、インターネットなどが先行して、営業マンの泥臭い活動はなくなってきているような気がします。背景にあるのは、そのほうが効率的ということでしょうが、本音は「営業は嫌だ」という潜在的なものが社員にあるのではないでしょうか。

昔は、「営業は断られてから始まる」、「足で稼ぐ」などと言われたものです。この言葉、「真理」だと思います。ここに立ち返った営業力をもった会社こそ苦境に生き残る会社なのです。何でも入ってくるようにしてから、バケツの穴は塞げばいいのです。

2008年6月16日 (月)

エクセル考

エクセルがあるおかげで、本当に複雑なシミュレーションも簡単に、廉価でできるようになりました。もちろん、ある程度のスキルは必要ですが、努力次第でかなり複雑なこともできるようになったのではないでしょうか。

しかし、頭の痛い問題がひとつ。結構、ミスを犯しやすいのです。誰でも経験していると思うのが「計算式のミス」。特に、「コピー→貼り付け」の繰り返しをした場合、あとで行や列の追加した場合等など。簡単になった分だけ、自分自身が検証する姿勢を持ってないととんでもない間違いを起こしてしまいます。

プレゼン中やセミナーでの解説中にミスを発見してしまった時は、冷や汗モノです。頭は「ここをドウ乗り切るか」でいっぱいになってしまい、語気に力がなくなってしまいます。正直に「間違えました」と言って気持ちを改めるのが一番ですが、やっぱり後味は悪いです。

さらに、本番中あるいは本番前にミスを発見することがやたら多い。なぜか。考えられる理由として、作成してから時間が経過し、客観視できる状態になっているからではないでしょうか。

そのことに注目して、ミスを少しでも減らすために、ある程度の時間経過後に必ずペーパーに出力してチェックするようにしています。画面はダメです。ペーパーです。なるべく受け手の立場で資料に目を通すようにするからです。つまり、客観視する側を自分でやってみるということです。すると、いろんな矛盾点に気づいたり、別の視点に気づいたり、思わぬ副産物もあります。もちろん、ミスも事前に発見する頻度が多くなります。

チェックはわずかな時間です。長くても30分程度。短くて3分程度。その寸暇を惜しんだり、面倒くさがったりすることで、実は大切な「信用」を落とすこともあります。いくらすばらしいことが記してあっても、長い時間かけて作った労作であっても、誤字脱字の多いものを信用することはできないですから・・・。

考えてみると、これは仕事の基本中の基本。最後の「詰め」を怠ることの代償を身近な作業からも読み取ることができます。

2008年6月 8日 (日)

管理職の発言

会議の場での管理職の発言には、非常に注意を払わなければなりません。管理職といっても、特に登用されたばかりの管理職の場合、「管理職たるものはどうあるべきか」といった基本的な価値観もないまま登用されているケースが多いと思います。そうした場合、会議において趣旨とかけ離れた意見、質問が出て、会議の議題がそちらへ行ってしまう。その意見、質問は近視眼的な、ミクロな内容だけに、みんなにわかりやすい。それと、経営批判を若干含んでいる場合も多い。これを聞いた他の管理職、非管理職は、こちらの伝えたかった趣旨とはまったく違う方向で捉えてしまいます。

そんなことを避けるため、言葉は悪いですが、「根回し」をするようにしています。会議において趣旨と違った発言をすると予想される管理職に事前に伝えて、妨害されないようにするわけです。もちろん、本人に悪気があって発言するケースはほとんどないので、たいていはうまく運びます。悪気がある場合は、火に油を注ぐことになるので要注意。

しかし、時々、思わぬ伏兵が現れて、事態がまずい方向に行くことが・・・。それが、管理職に成り立ての人です。会議の趣旨が読み取れないのです。本人の責任感からくると思うのですが、内容は枝葉末節へ。こちらは内心、「だからどうなの。そのことが問題解決にどうつながるの」と思っているのですが、ほうっておく訳にもいかないので、問答を繰り返し、最後は泥沼化してしまいます。

立場上、そのような状態になった場合、客観視して趣旨に沿うように会議を戻すのが役目なのですが、場合によっては、会議の当事者にならざるを得ないときもあり、そうなると渦中の人になってしまい、他の管理職からの助け舟を待つ状態になります。こんなとき、老練な管理職の発言にはホントに感謝します。

会話によるコミュニケーションでは、真意は最大70%しか伝わらないそうです。会議のような場では、もっと落ちるでしょう。それだけに、場の雰囲気のようなものに参加者は影響されやすく、同じ言葉も180度異なるベクトルで捉えられてしまう危険性があります。

自由闊達な意見を出して議論をする場なのか、みんなの意思統一を促すための場なのか、それによって会議の運営、段取りもまったく異なるものとなります。大勢の参加する会議は後者が多いと思います。それだけに、管理職の発言には細心の注意が必要なのです。どういう価値観の下に発言をするか・・・この価値観が会議の成否を決めます。

2008年6月 2日 (月)

理論と現実の間

「仕事柄、どうしても理論的にならざらるを得ない」のは正直なところです。「現実は理論通りにはならない」ことは百も承知しているのですが、理論が正しければ、少しでもそこに近づく努力をすべきと考えています。そこをわかってもらえないと、「現場を無視して机上論でモノを言っている」と現場からの指摘をもらうわけです。

「原価の標準値を教えてもらえますか」という問いかけをすると、

現場:「状況によって色々変わるから標準値はわからない」

西原:「でも、標準的な環境を設定した場合、何らかの値はありますよね」

現場:「標準的な環境なんてない。その都度かわるんだから」

西原:「しかし、発注するときは、基準があって発注量をきめるのだから、何かあるんじゃないですか」

現場:「そんな堅苦しいことじゃなくて、勘とか経験だよ。現場を経験してない人間には何を言ってもわからないよ」

言い方は別として、おおよそこんなやりとりが現場と繰り返されます。

こちらの目的は、理論と対比して現実をよく知ること、どこに問題があるかを洗い出すことです。だから、何が何でも理論通りにコトを進めるなんてこれぽっちも思ってないのですが・・・。

こういう場合、若い女性社員が意外と理論的に考えていて、ヒヤリングすると、色々と教えてくれることがあります。彼女たちはきわめて合理的な場合が多いのです。

現場主導で物事を進めるのには賛成ですが、そこに何の理論もない場合は賛成できません。理論を知らなければ、現実を正確に捉えることは不可能と思いますし、その仕事を部下に教えていくことも不可能と思います。

理論を踏み台にして現実をよく知ることが、理論の最大の効用と思っています。そして、理論は学問と切り離しては考えられません。とすると、仕事というのは常に学問的な色彩を帯びる要素をもっていると考えられます。そこを理解してもらうことが、現場改革の第一歩と認識しています。

2008年5月23日 (金)

適格退職年金廃止

平成24年3月、適格退職年金は廃止です。そもそも、この「適格退職金」よくわからないシロモノ。いろいろ調べてみると、企業年金保険であり、法人税法で一定条件を満たせば、掛け金を損金処理できるということです。だから、「税制適格」というわけです。

企業は効率よく退職金の資金を確保する必要があり、退職金は支払わないと経費(損金)とならないため(一部引当は可能でしたが)、大企業から小企業まで保険会社に勧められるまま加入したようです。

国としては、損金算入されると、税収は減るのですが、将来、国民の生活が困窮して生活扶助の支出が増えるなんてことは絶対さけなければなりません。だから、将来のリスクを減らすためにも先に損をとったのでしょう。

保険会社は、こんな優遇された商品であれば、簡単に売り出せるし、当時、新商品もなかったのしでしょう(推測ですが)。高度成長で、5.5%の金利を支払ってもまだ儲かる時代だったのです。

しかし、昨今の低金利。これでは将来の支給に支障をきたすということで、廃止に。廃止といっても法人税法の条文を削除すればいいわけです。簡単です。ところが、企業においては様々な問題をはらんでいます。

退職金は労働者の労働債権。廃止しても権利は残っているのです。今後どうやって原資を確保するのか。確定拠出年金、確定給付企業年金、中小企業退職金共済、厚生年金基金・・・と移行先は用意されているものの、一定の条件、制限もあります。いずれにしても何らかの退職金規程の変更は必要で、それが不利益変更にあたる可能性が非常に大きい。

しかも、確定拠出年金については、原則60歳支給で、個人の責任で運用するというのですから、明らかにリスクを個人に押し付けた感じです。

企業、国、保険会社、この3者の背景にある「思惑」を今一度整理して、将来設計を考えなければなりません。

2008年5月17日 (土)

「コーチング」ってドウ?

どんな改善テーマであれ、最終的に行き着くところは「人」の問題です。一見関係ないようで、やってみるとやっぱり「人」。例えば、「在庫管理は人の問題」とはよく言ったものだなとつくづく思います。

で、人員数が足るかどうかの問題もありますが、重要なのは中身で、一人ひとりの能力を向上させたいのが多くの企業の願いです。そこで、いろいろと手法を考えるのですが、そのひとつが「コーチング」。

ある同業者が、「評価面接に立ち会って、あれこれコーチングの手法を使って面接するんだよ」といとも簡単に言うものだから、「コーチングってそんなに簡単なものだったかな」・・・と。もう一度、最近のコーチング関連の書籍を読んでみると、やっぱり奥が深い。

手法だけに拘って読むと、「なるほど、こうすればいいのか」と思うのですが、実践すると相手が人だけに筋書き通りには進みません。

よくよく考えてみると、コーチングが有効になるための前提条件がいくつかあるのでは。例えば、「学習意欲が常にある」、「過去に強制力のある組織で働き、自分の能力が十分に発揮できなかった」などなど。

そんな前提なしで、誰にでもコーチングの手法を使ってしまうと、指導されるほうも指導するほうも「楽する」以外のなにものでもないような気がします。

スポーツ選手の場合は、「優勝したい」、「強くなりたい」という向上心が桁外れに大きいため、うまくコーチングがかみ合うのだと思います。しかし、ビジネスの場では、様々な価値観の人たちが働いています。そこを正確に見極めることが企業の人材育成には欠かせません。人材育成においても「選択と集中」は重要テーマです。

2008年5月10日 (土)

限界利益という考え方

限界利益は、意思決定において非常に重要な概念ですが、意外と忘れ去られることが多いようです。そもそも、日本においては、財務会計、税務会計が主体で、限界利益は扱いにくいのかもしれません。

一般的に売上高から変動費を控除したものが「限界利益」という理解です。正確には、売上高が一単位増えたときに増加する利益がのほうが正しいかもしれません。損益分岐点を作成する際の基本的な考え方でもあります。

重要なのは、限界利益は固定費を控除する前の利益であることです。もし、固定費がゼロであれば、会社は絶対に赤字にならないという絶対的な事実を認識しなければなりません。経費すべてが変動費のみであれば、こんなに楽なことはありません。しかし、会社も個人も生きていく以上、必ず固定費が発生します。固定費があるから、赤字があり、倒産、破産があるのです。

「Aという部門が儲からない。この際、当該部門を廃止するから」という意思決定らしき連絡。それで、事情を聞くと、具体的な精緻な計算はしてない。感覚的に、あるいは大雑把な計算で「この部門は赤字」という認識らしい。「粗利がこれだけで、これにかかわる人件費がこれで、賃借料がこれで・・・云々。そうするとこんなにマイナスです」、「やればやるだけ損だ」

しかし、その部門を廃止しても、該当部門の人を全員スパッと解雇するならわかりますが、たいてい、できない。賃借料にしても、その他固定費については共通費となっていることが多く、削減は難しい。そうすると、赤字部門といいながら、今までは当該部門の限界利益で固定費をカバーしていたのに、その分がなくなるわけですから、さらに赤字が拡大します。

例えば、売上1000、変動費600、固定費700で、利益を計算すると、マイナス300の損になります。限界利益は400です。限界利益400で固定費700がカバーできないから、マイナス300の損となるわけです。この部門をやめるのであれば、限界利益400がなくなるわけですから、固定費がそのままならマイナス700の損、限界利益相当の固定費削減をして従前のマイナス300と同じとなります。とすると、この部門をやめるには、固定費400超の削減をしなければなりません。それができて、部門廃止の経済効果があるのですが・・・。

固定費の削減ができないまま、廃止すると損はさらに拡大することになります。製造業の場合は、固定費が大きいのと、財務会計主体になっているために、特に注意が必要です。

単純な計算なのですが、どうも理解していただけないケースがしばしば。自分の説明が悪いのかとも思うのですが、話は単純。これ以上噛み砕くことはかえって失礼では。特に数字に弱い、嫌いな会社ほどその傾向が強いようです。シミュレーションの示す数字よりも、感情が優先しているような気がします。しかし、数字は絶対なので、間違いなく悲惨な結果が出ます。部門でなく、商品を廃止する場合も同様の考え方になります。

重大な決断をする際は、あらゆることを考慮して総合的な判断を要求されます。もちろん、感情面の要素も無視できません。結果を覚悟して決断する場合とそうでない場合とでは、天と地ほどの差があると思います。決断してから、「そんなはずじゃなかった」とならないためにも、今一度「限界利益」の示す意味を再考する必要があるのではないでしょうか。

2008年5月 5日 (月)

過去との決別

組織が、個人が、未来において変わるためには、そのアプローチ手法をどうするかよりも、過去と決別することのほうがはるかに重要と思います。

組織の制度を構築する、整備するといった欲求の中には、必ず、「未来志向」が含まれています。組織(クライアント)が専門家に依頼する際は、何かすごい手法で変えてくれることを期待するわけですが、手法は学習してもらうことで知識としてお伝えすることはできます。しかし、過去の成功体験、習慣を捨ててもらうことが前提になります。そうしないと、「画餅」になることは間違いないです。

「離職率が高くて、一度給与制度を見直して欲しい」との依頼。数年前に給与制度を改定して、「成果主義」を導入したとのこと。その際に、生活保障手当を廃止し、諸手当の数も減らし、基本給に組み込んだ改定をした・・・と担当者は説明し、それが従業員にとって魅力がなくなり、離職率が高くなってしまったと推測しているとのことです。さらに、新卒者もほとんど採れないと。

一連の話を聞いて、わかったことは、制度を改定したけど、考え方も習慣も何も変わっていないということです。つまり、旧来の考え方に成果主義をのっけただけ。担当者すらその趣旨を理解していないし、挙句の果てには、昔の制度のほうがよかったと言い出しかねない様子です。

さらに続けて聞くと、給与制度だけでなく、他のことも同様の現象が生じているようです。そうやって話しているうちに、担当者自身がこれまでの組織の風土に原因があることに気づくことが多いのですが、気づかない場合もあります。気づいてもそれを役員に伝えることができないような場合も非常に多いです。

個人のビジネスでも、何らかの動機があってビジネスを始めます。ある一定規模までは順調に伸びます。しかし、そこからは過去と決別しないとさらなる飛躍は得られません。成功体験を持っているだけにそこは非常に難しい。そのレベルで満足するなら問題ないですが、「まだ行けるんじゃないか」と思って、従来の延長でさらにがんばる。しかし、限界効用逓減の法則のとおり、限界なのです。

組織を離れて、個人ビジネスを起業する場合、組織の悪しき習慣から脱して、生まれ変わってビジネスを起こす、つまり、過去と決別するわけです。だから、順調に行く可能性は高いと思います。しかし、上記のとおり、ある一定規模から、成功体験を持った個人が過去と決別するのは難しい。だから、組織化して別の血を入れて、少しでも過去との決別に近づけて、新たなチャレンジに臨む。こうして、個人から組織へと拡大して、それなりの規模に成長するのではないかと思います。

ましてや、企業は複数の個人の集合体なのです。安易な手法で変わることは不可能です。組織の構成員一人ひとりに「変わる」ことを要求するわけですから、過去と決別できていない個人の集合体において、単に制度を改定しただけでは変化がないのは当然なのです。過去と新たな制度の間に置かれた従業員の不満はつのるばかりです。未来に前進するためには、過去との決別は思った以上に重要なのです。

2008年4月19日 (土)

ブログ開設

日々の業務の中での、問題解決アプローチを本音で記録していくことが目的です。そうすることで、アプローチ方法の分析、他への応用を考えたいと思います。

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