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2009年10月29日 (木)

情報の属人化

社内において情報の属人化は非常に恐ろしい。よほど報連相を徹底する習慣を持っていないと、経営者ですらアンタッチャブルの領域を作ってしまいます。

原則として、仕事に人をつけるのが組織のあるべき姿でしょう。しかし、わが国は古くから人が仕事を作るという風土をもっています。だから職務給が根付かないということになるのですが、結果だけでなく人の能力を評価するので「人が仕事を作る」という風土も一概に否定できません。

ただ、人が仕事を作ることに伴って発生する情報を武器に立ち居振る舞いをされると最悪です。情報が属人化すると、悪い情報は経営者には流れません。いい情報だけ流れます。しかし、いい情報はもともといいのだから経営には支障ありません。重要なのは悪い情報をすばやく流すことです。悪い情報は遅れると経営に支障をきたします。

属人化している場合、悪い情報が遅れるどころか闇に葬られることもあります。いい情報、悪い情報の判断も属人化された判断です。

こうしたことが繰り返され、業務は非効率になり、経営判断ができず、いつの間にか高コスト体質が当たり前になってしまい、損益分岐点の高い会社になってしまいます。経済環境の悪化で赤字になっているのではなく、もともとこうした体質があったから赤字になっているというのが本当のところでしょう。

属人化すると当人は気づいていません。それどころか「自分は何でも知っている」と快適にさえ思っている可能性があります。さらに始末の悪いことに、当人は情報を握っているだけに日常業務のキーマンになっています。

だから、経営者も遠慮して注意できない。周囲は「脅威」さえ感じ、悪循環は深まるばかりです。もちろん下の者は育たない。そこまで放っておいた経営者にも原因はあるのだから、最後は経営者が恐れずにリーダーシップを発揮することが問題解決の要です。

2009年10月22日 (木)

月次決算と発生主義会計

月次決算には発生主義会計が不可欠です。発生主義は、現金の収入や支出に関係なく、収益や費用の事実が発生した時点で計上しなければならないとするものです。

ある会社の月次試算表を見ると、「なんか変だな」と。月次推移を見ると、売掛金や買掛金がまったく動いていない。しかも、月によって粗利益率の変動幅が大きすぎる。事情を聞くと、「税理士さんに出してもらっている」と。

西原:「もしかして、決算のときだけ税理士から売掛金の残高、買掛金の残高の一覧を教えてほしいと毎年頼まれているのではないですか」
会社:「そうです。毎年決算のときだけ頼まれます」

これは、期中「現金主義」で処理して、決算月に修正して年次では「発生主義」にする方法です。税務決算だけならこの方法も否定できないですが、月次決算となると相当な問題。期中の損益はまったくわからない。現金の増減を見ているだけのようなものです。すべて現金取引ならいいですが、そうでなければ企業会計としては意味がありません。

そもそも企業の儲けは現金が増えなければ儲けとはいえません。その現金を生む根源は発生時点にあり、さらにいえば意思決定時点までさかのぼります。意思決定時点で儲かるかどうかは決まっているのです。

しかし、意思決定時点で損益を把握することは不可能なので、発生時点を基準として損益を確定します。現金は発生の後に動くので、発生時点で先の現金残高も確定します。

小規模企業では現金主義で会計処理しているところは結構あるようですが、そこそこの規模になっても同様にしているケースもあるので大変な驚きです。

「現金主義の月次試算表を毎月渡されて、しかもご丁寧に細かい財務分析まで。一体、経営者は何を見ていたのだろう」と疑問に思ってしまいます。こんな状態で「当社は業績主義を導入している」と言われると、疑問ではなく不安になってきます。

現金主義の処理は作業が楽です。しかし、そのつけは計り知れません。今のご時勢、企業規模に関係なく、「月次決算」と「発生主義会計」は基本中の基本と思うのですが・・・。

2009年9月24日 (木)

現場任せは部分最適

仕事を「現場任せ」にするとどのようなことが起こりやすいでしょうか。

「現場を大切にする」、「現場の意見を聞く」どれも大切なことですが、「現場任せ」だけはいただけない。なぜなら「現場任せ」は部分最適な場合が多いからです。部分最適な集合体は必ずしも全体最適にはなりません。

行政の仕事を考えてみてください。行政の各部署は自部署をよくするために一生懸命努力してがんばっていると思います。しかし、全体最適の視点でみるとどうでしょうか。政権をとった民主党と官僚とのギャップをみれば明らかです。省益(部分最適)あって国益(全体最適)なしです。

がんばっているから、自分たちの悪いところを見ようとしない。上からいろいろと改善案を出してもなかなか受け入れようとしない。改善案は全体最適だからです。

こうしたことが企業内でも起こります。「現場はかんばっているから」といっていつまでも旧態依然とした考え方、やり方で同じミスを繰り返す。現場主導で「経営陣が現場の仕事に口を挟まない」・・・一見いいことのようにも思いますが、そのためにはいくつかの条件が必要です。

以前ある社内研修で「現場主導には賛同できない」と発言したら相当現場から反発をもらったことがあります。技術を売る会社なので当然の反応ですが、こういう企業では現場で「コスト」がおろそかにされているケースが多い。現場中心の名の下にコストをかけることが正当化されているケースが多いのです(役所の体質も同様ではないでしょうか)。また、近視眼的なものの見方をするのが現場です。

こうしたことは全体最適の視点から見たら、肯定できるものではありません。現場では「全体最適あっての部分最適である」という視点が欠けてしまうのです。

だからといって、すべてトップダウンで現場をコントロールのがいいとも思いませんが、少なくとも全体最適の視点をもつ現場管理者を置いて情報を経営陣にフィードバックすることは必要条件です。

経験上、生え抜きの管理者は部分最適になりがちです。厳しい環境下では部分最適しかできない管理者は弊害になります。全体最適の目を育てなければなりません。

2009年8月13日 (木)

職務給と職能給

職務給は「仕事基準賃金」の代表格で、職務の価値を測定して賃金を決めます。日本では、職務給がなかなか普及せず、年功的賃金や職能給が主流です。

年功的賃金は下方硬直的で、そのことが若年者の低賃金や非正規社員を生み出しているようです。昨今のワーキングプア現象を解決するには日本も職務給への移行が必要と言われるわけです。世界のスタンダードは「職務給」ですので、確かに今後は検討しなければならないでしょう。

しかし、日本の風土で職務に値段をつけることができるでしょうか。

値段をつけるには、職務が標準化、一定化されている必要があります。日本での仕事のやり方は、業務の中で課業が個々の社員に与えられ、それを工夫しながら職務を拡大、充実していく傾向があります。その職務拡大・充実ができる社員が高く評価され、言われたことしかできない社員は評価が低いというのが一般的です。

ですから、中心は「人」で「人基準賃金」が日本の歴史上では採用されてきました。これを果たして「仕事基準」に変えることができるかどうか。個人的には宗教的なこと、遊牧民族と農耕民族との差など、DNAレベルで日本では不可能と思っています。

日本には「職能基準」というすばらしい「人基準」があります。それに基づいた賃金が職能給です。職能給に対して批判はありますが、真剣に取り組んだ企業は成功しています。

想像ですが、「仕事基準」が中心になると、日本の企業が高付加価値を実現することは難しくなるのではないかと思います。「仕事基準」の行き過ぎが、昨年の米国金融界の不祥事を生んだと思うと、世界のスタンダードが「仕事基準だから」というのもなかなか納得できません。

低賃金、非正規社員の問題は深刻ではありますが、国力を落とすような政策は避けなければなりません。資源のない国ですから、「人」を資源として「高付加価値」で生き残る方法を選択すべきではないでしょうか。

2009年6月18日 (木)

仕事と自己

「仕事はここまで。あとはプライベート」、「会社が終わったら、あとは自分の時間だから仕事は関係ない」・・・若いとき私自身そういう割り切った考えはありました。しかし、いつからかわからないですが、それは「間違っていたな」と感じるようになりました。

確かに、仕事の性格上そのように割り切れない部分が多いというのはありますが、本質的に仕事とはそういうものであるのではないかと考えています。正確にいうと、働きづめといったことでなく、プライベートの時間も仕事のことは片時も忘れないといったほうが妥当です。

こうなると、その仕事を充実させないで、いい人生を送ることは不可能ではないかと思います。仕事を通じての成長に充実感を得、仕事を通じて自己を社会に表現することが、まさに「自己実現」ということなのではないかと。

「組織を変える、風土を変える」・・・大変な難業なのですが、これなくして改革はできません。なぜ、研修やコンサルを入れても改革できないのか。一人ひとりの仕事意識なるものが変わらない限り、見せかけの改革で終わってしまいます。真の改革は仕事と自己が一体化するものでなければなりません。

そうした一体化が実現したとき、組織と個人のさらなる飛躍が実現するのでしょう。小手先の経営手法や研修はクソにもならないと痛感しています。

2009年6月11日 (木)

在庫の問題は人の問題

在庫管理の状態を観察すれば、おおよそ組織の風土、経営状態がわかります。在庫管理はモノが入って出て行くまでの過程を管理するわけですから、外的な影響は受けにくいのです。在庫管理の問題はまさに「社内の問題」です。売上のように外部環境のせいにすることはできません。それだけに社内の意識の影響が大きく、これがきちんと管理できていれば、まずそのその組織は良好でしょう。

具体的には、
まず、社員が在庫を金銭的な感覚で捉えることができるかどうか。これができれば、コストカットにかなり意欲的な社風が感じられます。ムダの排除も行き届いているでしょう。

次に感覚的に低い価値で認識されがちな在庫管理のルールを社員に守らせることができるかどうか。これは、指揮命令、報連相がきちんとできているかどうかが確認できます。ある会社では、私が現状在庫をまず把握すると告げたら、幹部社員が慌てて、死蔵品をこっそり捨てたという例もあります。こんなのはこの時点でアウトですね。そういう風土や意識を改革しないと、どんな手法を導入しても何もうまくいきません。案の定、その後指揮命令、報連相が壊滅状態ということがわかりました。

最後に、トータルで管理を考えられるかどうか。在庫はモノが入って出て行くまでの過程ですから、一部のプロセスだけ効率化してもダメです。つまり、在庫管理も生産工程と同様に前工程、後工程を考えて自分の工程を考えなければなりません。また、イレギュラーが多いのも在庫管理の特徴です。このイレギュラーを原理原則に則したかたちでいかに処理するかは社員の問題解決能力によって相当な差がでます。これができれば、一事が万事で組織の問題解決能力レベルはかなり高いと思います。

在庫のないサービス業でも同じです。消耗品、受注残、顧客など・・・在庫と同様に考えることは可能です。

以上が「在庫の問題=人の問題」といわれる所以です。

2009年5月21日 (木)

緻密と大雑把

組織にはさまざまな性格の社員がいて、その人たちが協調して仕事をすることで、組織としての一定の価値サービスがユーザーに提供できると思います。社内には、緻密な人や大雑把な人が入れ乱れて、それがパズルのようにしっくりはまり、ひとつのまとまりとなっているのです。もし、緻密な人ばかり、大雑把な人ばかりでは組織運営は破綻するでしょう。

よくみると、「緻密な人は根っからの緻密ではない」、「大雑把な人は根っからの大雑把ではない」ということに気づきます。つまり、何人かの人は組織の状況をみて、「緻密にせざるを得ない」、「大雑把にせざるを得ない」と使い分けているのです。

こうしたタイプは、比較的「仕事ができる人」に多いと思います。特に、経営者にはこのタイプが多いように感じます。「うちの社長は細かくて困る」といった社員の意見に対して、私が感じるのは「それは社員が大雑把すぎるから」です。きっと、社員が細大漏らさない視点で仕事をしいれば、社長はさらに大局的な立場で指示するのではないかと思います。「繊細かつ大胆で、行動は大胆に」というのが理想です。

問題は根っからの緻密な性格、根っからの大雑把な性格です。このような性格の社員が権限を持つと、周りは相当振り回されます。せっかくの仕事のできる社員がこのフォローにまわらなければなりません。社長も細かい指示ばかり飛ばさなければなりません。

本来、仕事は緻密なものというのが私見です。緻密さを突き詰めて最後に大胆に決断するというのがいいのではないでしょうか。

2009年4月25日 (土)

PDCAはできなくても効果あり

以前、「PDCAサイクルは自然消滅する可能性が大きい、それは各人の温度差があるから」と書いたのですが、ここにひとつ朗報があります。

ある調査によると、数ヶ月以上の時間をかけてビジネスプランを作成した会社と何の計画もなく行き当たりばったりで対処した会社の成長を調査したところ、慎重に計画を練り、明文化した会社のほうが行き当たりばったの会社より利益を上げている事実がわかりました。詳細な計画を立てなかった会社は倒産したケースも含まれます。

・・・と、ここまでは当然予想できることです。そこで、計画を立てた会社に「どの程度計画の見直しをしたか」と問うたところ、ほぼ例外なく計画が出来上がって以来、見直していませんでした。つまり、出来たと同時に机にしまいこんでしまったということです。

結論として、計画通り実行したから成功したのではなく、「計画を立てるプロセスで得た情報、思考が成功につながった」ということです。

計画を立てる作業というのは、あらゆる可能性を網羅しなければなりません。そのプロセスでリスクも計算に入れるし、擬似的に理想的なビジネスを描きます。現実はそれとは乖離しますが、問題点を認識する能力は、計画のない場合よりも格段に上がると思います。

そのことが、ビジネスプロセスにおけるキーファクタを認識させ、不断の体系的思考を可能とし、計画とは異なっても成功への要素を押さえるのではないかと思います。

そういえば、いつも計画は立てるがいつの間にか立ち消えている会社と、行き当たりばったりの会社を比較すると、前者の会社のほうがこの不況期でも健全性があるような感じがします。机上論でも考えないよりはましと言えそうです。

アイゼンハワー将軍がノルマンディ作戦成功後、作戦についてたずねられ、こう答えました。

「作戦そのものは役に立たない。作戦を立てる行為こそが不可欠なのだ」

2009年4月20日 (月)

コミュニケーションの難しさ

ある説によると、会話において話し手の本意は相手に70%程度しか伝わらないということです。「え~、そうなの」と最初は思ったのですが、最近は確信しています。

朝礼などで、トップが部門長に話をし、それを部下に伝える際は、トップ→部門長で70%、部門長→部下で70%×70%で49%。ということは、トップの本意は半分くらいしか全体には行き渡らないということです。

おそらく、聞き手が相当注意を傾けてこの数値なので、いい加減に聞いているともっと低い数値になるのでしょう。部下が10人いたら8人はいい加減に聞いていると思ったほうがよさそうです。(ニッパチの法則=パレートの法則=2:8の法則)

この説が真実だとすると、聞き手が悪いのではなく、話し手はこのことを踏まえて相手に伝えなければなりません。残りの30%をどうするか。今のところ、何度も会話を交わしてその穴を埋めるのがもっとも効果的ではないかと思います。

考えてみると、言葉というのは実に不可思議なもので、ひとつの言葉の意味はみんなが共通のイメージをもっているとは限らないのです。それは育った環境も教育環境も違うのだから当然なのですが、普段はそんなことも気にせず会話して本意は伝わったと勘違いしてる可能性は大きいのです。

例えば、「戦略」という言葉、人によって相当意味が違いそうです。もっと簡単に「やわらかい」という言葉、これもその人の尺度で随分違いがありそうです。こうした言葉の集合体でコミュニケーションをしているのですから、本意が伝わらないのも無理もないということです。

とすると、前述した「何度も会話を交わす」という方法で、本意を100%に近づけていく、また、聞き手も相手の状況や習慣などから「察する」という方法で、コミュニケーションの質を向上させるということが必要ではないかと思います。同じことを何度も聞くのは嫌がられますが、これもある程度は必要な行為と言えそうです。

同じ環境化であるはずの家族間でも本意を伝えるのは難しいのですから、社会での組織内コミュニケーションはなおさら努力しないと本意は伝わらないのです。むしろ、伝わらないことを前提にコトの進捗は考えたほうのがいいかもしれません。

2009年3月26日 (木)

挨拶の目的

以前、「挨拶のできない会社」というテーマで挨拶の効用を書いたのですが、では、なぜ挨拶が必要なのでしょうか。挨拶の目的は何なのでしょうか。

私たちは、社会とのかかわりをもって生きていかなければなりません。家族(親、子、兄弟姉妹)も社会の構成部分ととらえれば、誰もが社会とのかかわりを必ず一時期持つことになります。

社会とのかかわり・・・そこには必ず人が介在して、人とのやりとりがあるのです。そのとき、ある種の「緊張感」があることは間違いありません。「緊張なんかしないよ」という人もいるかもしれませんが、動物が他の生き物を見たとき、緊張が走る本能があるように、何らかの緊張感が生まれることは自然なことと思います。それが、家族であっても、やはり微細な緊張感は生まれているのではないでしょうか。

例えば、

狭い道の向こう側から見知らぬ人が歩いてくる。
だんだん近づいてくる。
チラッと相手の顔を見る。
すれ違う。
緊張が走る。
通り過ぎる。
ホッとする。

相手がだんだん近づいてきたとき、突然「こんにちは」と声をかけられる。緊張は一瞬で解けます。これが挨拶の目的です。つまり、本能的に生ずる緊張を解きほぐして、その後のコミュニケーションを意識的に円滑にするのです。

家族でも朝一番「おはよう」と声をかけることで、その日一日のコミュニケーションは変わると思います。ましてや、他人同士が働く職場では心がけて挨拶をしないと、コミュニケーションは悪化して仕事の生産性はがた落ちです。

以上が、「なぜ挨拶の必要があるのか」という問いに対する私が答えた回答です。

«成果主義はプロセス主義